俳文ショートストーり-.(2007 /06)
ワールドマン
水夫 清 作
本棚の整理をしていて古い本を見つけた。大きな本棚の端の下の、すっかり忘れていた場所にその本、マッキンレー高校1968年卒業アルバムがあった。あれからもう40年も経つのか…カバーのビニールがかなり黄いばんでいる。息を数回かけて埃をはらった。
濃い緑色のハードカバーを開く。ページを繰りながら少年少女の笑顔を見る。ライティングや服装、そしてポーズ、正統なポートレイト写真だ。私の写真がある。ロング・ヘヤーが流行る前の時代で、七・三にきちんと櫛が入っている。ネクタイが棒のように細い。生まれて初めてそういう写真を撮ってもらった時の気恥ずかしさを思い出す。笑顔写真の上に書かれた私へのはなむけの短いメッセージを読む。内容は紋切型だが、時間が経っているのでなつかしい。今、連中はどうしているのだろう。卒業後の繋がりはほとんど絶えてしまっている。そうだ、ウエブ検索をしてみよう、と思い立ち私はアルバムを持ってコンピュータの前に座った。
グーグルの検索サイトを立ち上げ、名前を打ち込む。女子は省く。おそらく名字は変わっているだろうし、それにその頃シャイな学生だった私に、女子の知り合いは少なかった。少ないのだが中に、ホームカミングのクイーンに選ばれた子のメッセージがあった。
ホームカミングは年に一度のビッグ・イベントだ。同窓会の人たちを招いてフットボールの試合やパレード、ダンスパーティなどが催される。この行事を盛り上げるために在校生の中からキングとクイーンが選ばれる。当然、カッコよくて、そしてそれなりに成績も良い生徒が選ばれる。キングとクイーンには各学年から男女二人づつの付き人も選ばれ、全員正式にドレスアップして登場する。総勢8名のミニ王室が誕生するというわけだ。そのキャンパス女王のお言葉を戴いた。どういういきさつでメッセージを書いてくれたのか、もう思い出せない。彼女のような美人で人気者は当然名字が変わっているはずだ。検索は男子に絞る。
リチャード・ナガトモ、ラッセル・ヒガ、エドモンド・チン、ディクソン・ラウ、ウィリアム・トラビオ、レオ・カウヒニ、レスリー・キブツ、デクスター・ブルティ、ジェリー・フィッツジェラルド(グレート・ギャツビーの作者との関係は、もちろんない)、ハワード・パーマテン。次々と名前を打ち込み検索にかける。
該当なし。
いや、正確には該当がなかったわけではない。例えば、ハワード・パーマテンの場合、検索で出て来たのは、ドクター・ハワード・パーマテン。あのハワードが、自慰の俗語を知らないと言って私を馬鹿にした奴、私の助けでプリ代数の授業をかろうじてパスした奴、ROTC(予備役兵訓練隊のことで、あのころは必修科目だった)のライフル銃を分解し、組み立てるのに手を焼いていた、あのハワードがドクターになるはずがない。これは明らかに別人だ。
そんなハワードのような連中が高校時代の私の主な友達だった。当時の私は米国への新座者。日本の片田舎からハワイに船に乗ってやって来たばかりで、日常は言うに及ばず、高校生活は惨めなものだった。中卒の英語力しかない私は、英語による高校教育に長い間お手上げだったし、ダンス・パーティ、デイトなど大人びた習慣が組み込まれた米国の学生生活に当惑しどうしだった。そんな私をハワードたちは笑い者にしたが、でも同時に彼らのおかげで私は新しい環境に少しづつ馴染んでいくことができた。
アルバムに戻ろう。ページを繰っていて生徒会の記述が出て来た。そう、私はもう一人知っている。マッキンレー高校生徒会の会長をだ。彼の名は、ワールドマン・キム。
『ワールドマン名付ける親の心意気』
彼は、『東京ハイスクール』とあだ名が付けられていたほど日系の学生が多かったマッキンレー高校で、数少ない金髪だった。ルックスは上の中。水泳チームのメンバーだったから、締まった体つきをしていた。ホームカミング・キングに選ばれなかったのは背が低かったからかもしれない。
彼と私は三年生の時、科学の先生らしくない大きなバストの日系女性が教える物理の、クラスメイトだった。授業では、彼といっしょに何度か実験をする機会があり、物理の概念を理解するのに彼は私の助けを求めることが時折あった。(私は、夜更けまで教科書と格闘し、教科書に顔を伏せたまま寝込み、涎で文字が溶け消えてしまうぐらいの勉強態度だったから教科はよく理解していたのだが、学期末にその所々文字の消えた教科書を返す時、バストの大きい先生から注意をうけたのだった)
とまれ、ワールドマンは、生徒会長であり、全米優等生会の会員であり、三年生で唯一ハーバード大学に進学が決まっている生徒だった。その彼が、日本の片田舎から来たばかりの惨めな、なんでもないこの私を頼りにしてくれたわけで、私はとても光栄に感じた。そんなきっかけで私たちは話しをするようになった。彼とお近づきになれて私はうれしかったし、授業の後など彼と話をしながらキャンパスを歩くのが自慢でもあった。
彼のような、リーダーシップがあり成績の良い者は、世に出て成功したに違いない。彼の名前を検索にかけた。ワールドマンに関するリンクがいくつも出てくるはずだ。
ところが驚いたことに、グーグルの画面は一つの該当リンクしか表示しない。その一つには、ハーバード・レッドクリフ 1972年同窓会うんぬんという文字が読める。
たったこれだけか。
そのリンクをクリックする。ホームページが一つ表示される。ページの左側には目次用のボタンが並び、右側には名簿表がある。
この表は何?
表の上部には、『追悼録』と書いてある。えっ、追悼だって、まさか!
しかし、そのページの他の部分には、ワールドマンの名はない。残るはこの表の中だ。私は名前をチェックし始めて、やがて彼の名を見つけた。
『ワールドマン・ヤング・キム』そしてその隣に死亡日『1978年4月27日』と記されてある。
なんと、彼はもう亡くなっていたのか! それも27・8歳の若さで。卒業後6年目のことだ。希望に満ちあふれた将来があったろうに、名簿表はすでに彼の死を告げていた。
こんな結果が出るとは。私はショックを受けていた。私は、すばらしい検索結果が沢山出ることを期待していたのだ。例えば、ドクター・ワールドマン・キム氏、どこそこ大学で記念講演…とか、ワールドマン・キム社長が大規模な企業合併を発表…とか、ワールドマン・キム氏がこのたびの全米大会で議長をつとめることに…とか、ワールドマン・キムによるCNN特別リポートによれば…など、ワールドマンの名に相応しい検索結果が出ることを期待していたのだ。彼のような資質の人は世の中にりっぱな足跡をいくつも残しているはず、だった。しかし、インターネットの世界での彼の足跡は、『ワールドマン・ヤング・キム 死亡日1978年4月27日』の一行だけだった。
『ひまわりや枯れて残せよ夢の種』
もう、長い歳月が過ぎている。彼に一体何が起こったのか、今の私には知るすべはない。何が起き、どのように亡くなったのか、興味がないけではないが、人はいつかは、なんらかの形で亡くなるものだし、30年も前に亡くなった人に起こったことを私が知り得たところで、どうなるものでもない。むしろ私の心を今捕らえているのは、昔からある問いだ。
『善良で優秀な者が、何故若くして亡くなるのか』
答えが簡単ではないことは承知している。その問いに私はしばらく引っかかっていたが最終的に無難な考え方に落ち着いた。つまり、彼は生まれ変わり、どこかで新しい人生を歩んでいる、と。
もう一度アルバムを見る。彼の写真の上に、次のメッセージを彼は書いてくれた。
『キヨシへ、グッドラック。偉大な物理学者、そして良い人になれるよう祈る。アロハ。ワールドマン』
私は偉大な物理学者にはならなかった。でも、良い人には成ろうと努力している。妻、子供たち、孫たち、そして隣人や友人に対して。彼が生きていたらきっと同じような人を目指していただろう。
現在ウエブ上には、彼に関する記述は一つだけだ。しかし、この俳文のページをグーグルの検索ロボットが拾い上げたなら、それは彼の二つ目のリンクになる。ワールド・ワイド・ウエブ上の二つ目のワールドマン。私が彼のために出来ることはこれくらいのことだ。リンクが二つだけで彼は満足してくれるだろうか。
『色褪せたアロハを濡らす卯波かな』
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