Japanese translation

■会議報告
世界俳句協会創立大会報告(スロヴェニア、トルミン)
2000年9月8日

ジム・ケイシャン

広橋Shu訳

 
 スロヴェニアのトルミンで開催された世界俳句協会創立大会は非常に素晴らしい大会でした。六〇名以上の人々が詩や詩についての考え方を共有するために集まりました。参加者の大会にかけたエネルギーと友情は私たちの予想を越えたものでした。事実、世界中のあらゆるレベルの人々に対して俳句の普及を図るための、多くの新しい議案やプロジェクトが提案され、それは私たちの期待を大きくふくらませるものでした。そこで、本大会に残念ながら参加できなかった方々に、本大会の重要ポイントについてご報告したいと思います。
 
 9月1日(金曜日)
 大会参加者はトルミンに波状的に到着しました。第一波は午前3時到着のロンドンからの代表団でした。次はブレット湖での観光を楽しんだ日本からの大グループです。そして二、三人のグループによるバルカン諸国からの参加者です。午前中にほとんどの参加者が集まりました。その後、参加者全員で訪れたトルミンカ峡谷の吟行は素晴らしいものでした。天気も良く暖かく、吟行には最適の気候でした。しかし、峡谷を流れる川の源流を通り過ぎるまで、石灰岩質の山々に切り刻まれた峡谷を通り、川の端を上れば上るほど気温は低くなりました。しかしながら、私たちは俳句を作る多くの機会を得、また、峡谷の雄大さを味わいながら、峡谷トレッキングを無事終えることができました。その後、トルミン劇場で開かれる歓迎会に出席するためトルミンに戻りました。パーティーでは食事、飲み物、それにザグレブ出身のデドニーナ四重奏団によるスロヴェニア伝統音楽の素晴らしい演奏がまっていました。トルミン市のカルリ副市長、本大会ホストであるディミタール・アナキエフ、大会ディレクターであるイゴール・ドゥルノフセックの歓迎挨拶につづき、約半数の参加者から大会開催を喜ぶ俳句が吟じられました。夕食はトルミン劇場からホテル・クルンの食堂に席を移し、私たちは食事を楽しみ、また、さまざまな言語で会話を楽しみました。デザートがはじまると、まだ俳句による挨拶を交わしていなかった参加者もみんな俳句を吟じ、楽しい会話のあとで散会となりました。
 
 9月2日(土曜日)
 ホテルの食堂での朝食後、オープニング・セッション参加のため、トルミン劇場のほうに移動しました。セッションはスロヴェニア側の本大会ホストであるディミタール・アナキエフの講演「第三の道」で始まりました。アナキエフは、「世界俳句協会」(WHA)は単に詩人を集め、親睦をはかることがその目的ではなく、組織そのものをいかに発展させていくかという実際的な方途をさがすことが本来の目的である、と述べました。アナキエフは、現在の俳句世界は日本の俳句組織と、そのコインの裏表の関係である西洋の俳句組織、という二つの組織の影響を受け均衡を保っているが、「世界俳句協会」は第三の組織として発足すべきである、という提案をしました。そしてその組織は日本・西洋どちらの組織が持っているものも失うことなく、また、従来許容されてきたよりも、よりいっそう詩の要素を強調する、より包括的な組織であることを提案しました。現在私たちが新組織設立に際して行なっている重要な作業とは、この第三の道を選ぶことである、というポイントを、彼は私たちに指し示し、そしてその作業には「キーワード概念」の開発と俳句協会のよりいっそうの許容性が必要とされることも提示しました。このことは詩の世界における「世界俳句協会」の価値と性格を決定づけるものであり、「世界俳句協会」の今後の発展を追求するものでもあります。
 次にアメリカのジム・ケイシャンが「世界俳句協会の構造」と題した講演を行ないました。世界各国における俳句芸術の状況を調査し、彼は文化や言語の異なる多くの国々で、俳句への興味が芽生えていることを明らかにし、これら文化や言語が本質的に異なる、多くの人々に対して何を提供することがベストなのか、そして「世界俳句協会」はこれを成し遂げるために、どのような組織形態をとるべきなのか、という問いかけを行ないました。彼は人々の興味と関与のレベルに応じて、できる限り多くの人々に「世界俳句協会」のサービスを提供できる企画についても提案しました。まず第一に、すべてのメンバーが自分の作品を掲示することのできる「世界俳句協会ホームページ」の立ち上げです。このホームページは無料サイトとして運営され、すべてのメンバーが利用可能で、そして誰でもメンバーになることができ、すべての詩人に発表の場と機会を提供することができるのです。しかし、このホームページが大きな、あるいは通常、内容についての編集を行なわない、既成の他のサイトとの大きな違いは、サイト管理にあります。それは世界各地の俳句組織によって任命されたり、選ばれたエディターがサイト管理をするシステムです。これらのエディターの任務はその地域独自の作品を選ぶことです。「世界俳句協会」が国際的に発展することは、各々の地域性と特殊性を失うことを意味するのではなく、むしろ俳句がそうであるように、特定の時空間の詩を保護し、保証することが重要なのです。エディターの持つ、これらの位置づけを創りあげるためには、「世界俳句協会」と世界中の地区・地域・国ごとの各俳句団体との連携が必須であり、それは「世界俳句協会」の構造の第二段階を構成するものです。つぎに「世界俳句協会」はこれらの俳句団体を結びつけるのに役立つさまざまな企画を提供します。それらを以下に述べると、良い翻訳のための批評作業(英語は実際的な理由から「世界俳句協会」の公用語として採用されていますが、各々の言語による、その言語独自の素晴らしい詩型の追求が奨励されています)、俳句を取り入れようとしている、それらの国々や文化に対する「世界俳句協会」が行なう、教育的情報提供やさまざまな手段によるサポート(書籍、雑誌、ワークショップ等の形態をとって)、グローバル俳句についての理解を促進させる主要なプロジェクト、例えば、現在計画されているものとしては、世界ではじめての「世界俳句アンソロジー」、キーワード理論に立脚した、「歳時記」第一号、世界中の多くの国々に広まった「世界俳句の歴史」、最後に、とくに多くの国々の人々による定期的な会合(詩や詩についての考え方を共有し、私たちみんなが発展するための会合)です。
 午前中三人目の講演は英国の瀧口進でした。彼の講演テーマ「21世紀における世界俳句が抱える問題」は時宜を得たテーマであり、考えさせられるものがありました。世界俳句が抱える問題には多くの多様な課題がありますが、これらについて意見交換が行なわれることは非常に重要なことです。例えば、どの言語が世界俳句にとってもっとも有用な言語であるかについて、可能な限りその解答の方向性を追求し討論することは重要ですし、これらの課題のなかには、俳句における今後の日本の位置、「インターナショナル俳句」における英語の遍在状況、世界俳句における俳句のもっとも一般的なタイプ(「アメリカ・モデル」と名づけられる)の影響等が含まれます。これらの問題(すなわち、俳句はどういう方向に発展していくのか、私たちは俳句をどのように共有していけるのか、私たちが下す決定に対する世界からの反響とは如何なるものであるのか)は、私たちにとって目新しい問題ではありません。しかし、もし俳句が今後とも発展を続け、芸術的にも個の表現としても意味のあるものであるなら、今後、これらの問題と直面することは避けられません。もっとも勇気づけられることは、これらの問題に対する解答が現実的・現在的に提出されていることです。すなわち、日本の詩人が「インターナショナル俳句」を徐々に受け入れているということ、日本の俳句団体でさえ、より広い地平で展開されている「インターナショナル俳句」の価値や重要性や必要性を認識しはじめていることです。英語は確かに世界中で採用されています、勿論、問題がないわけではありませんが。しかしながら、どの言語を選択しても同じような問題をはらんでいるのは明らかです。また、英語が英語であるがゆえのあらゆる不利な点を差し引いたとしても、その使用人口の多さや、その流通領域が他の言語に比べて非常に広いことも明らかです。加えて、「世界俳句協会」のような組織の誕生によって、世界各地でさまざまな組織体が登場してくることは確実ですし、他のすべての組織体を除外して、単一の組織体だけが認められるということがありえないのも明らかです。ですから、将来的に私たちが直面する、これら世界俳句が抱える問題に対しても対応できる現在的な根拠を私たちは持っているのです。
 講演に続く活発な質疑応答が、午前中のセッションでもっとも意義深いものでした。議論されたテーマは幅広く、また、各々のテーマに関するさまざまな視点からの見解には教えられることが多かったです。この種の質疑応答のやり取りを通じてのみ、私たちは問題の全体的な広がりと深さを身近に知ることができます。そして「世界俳句協会」が可能にしたこういった対話においてのみ、それらの問題の広がりと深さについての議論が可能となるのです。
 ホテルでの昼食後、トルミン劇場での第二セッションは夏石番矢の「21世紀における世界俳句の共通基盤」(『吟遊』第9号に掲載)の講演から始まりました。番矢は21世紀には世界俳句はさまざまな問題に直面することを認め、これらの問題を克服できるかもしれない一つの方法を探し出しました(少なくともこれらの問題に対決しました)。彼は「夢」という言葉をキーワードとして、世界各地の詩人たちの俳句を取りあげ、各々の俳句に注釈を加え、「夢」という同一のキーワードにおいても、詩人によってその表現はかなり異なるが(換言すれば、「夢」という素材のもつ幅の広さ)、究極的にはそこに精神と存在の普遍性、共通性が見られることを示唆しました。取り上げられた詩人はアメリカのジョアン・マーコムとジム・ケイシャン、日本の相原澄江と金子兜太と乾佐伎、スロヴェニアのディミタール・アナキエフ、チェコのミロスラフ・クリヴァールでした。現在時点においては新しい世界俳句の共通基盤のすべてを私たちが知らないでいるとしても、人々に共有されている真実を抽出し、また、各詩人が表現する深い感情(詩人もまた共有している感情)を理解することによって、少なくとも私たちの共通基盤を発見することは可能です。
 つぎにクロアチアのマリヤン・チェコリが、禅としての俳句の位置付けに関する哲学的問題について講演しました。彼は禅が俳句の理解に必要であると思われていたときの俳句とはいかなるものであったか、という視点から俳句の位置づけを考察し、そこから多くの結論を提示しました。つぎにルーマニアのイオン・コドレスクが「グローバル化時代における言葉とイメージによるコミュニケーション」について講演しました。彼は本来、俳句は視覚的な詩であり、また、ちょうど私たちが言葉で伝えられたイメージの並置を通してエネルギーを創造するように、俳画を通して詩とイメージの伝達がはかられる、という考えを提唱しました。この議論に対して、俳画の機能について、無と有はいかにして同様に重要であるのか、言葉による暗示(俳句)と視覚的な暗示(俳画)がともにあるとき、私たちは両者の領域を越えていかにその意味を共有するのか等のさまざまな質問や意見が述べられました。つぎにロシアのズィノヴィー・ヴェイマンが、彼が関係しているロシアとイスラエルにおける新しい俳句文化について考察しました。豊かな文学的伝統と文化にたいする強い情熱を持っている両国における俳句文化の登場は世界俳句の今後の発展にとって決定的なものです。「世界俳句協会」の任務は俳句理解と世界中で組織化された俳句社会にたいするサポートです、と述べました。
 セッションの最後はベルギーのサージ・トーメの講演「俳句――現代世界に対応した詩型式」でした。彼は情報というものがどのように精神に取り込まれ、それがどのように処理され、そして俳句として誕生するのか、というプロセスについて考察しました。この俳句発生のプロセスと他の情報処理システムとの比較は非常に刺激的であり、活発な議論を引き起こしました。
 その後、トルミン劇場ロビーに席を移し、地元の名物料理とワインを試食しながら活発な議論を続けました。そこではさまざまな言語やいろいろなイントネーションでの英語が飛び交っていました。さらに、午後には雨が降り始め、外はどしゃ降りでした。最後に私たちは気が進まないながらも、多くの聴衆が待っている、俳句朗読会が開かれる市立博物館へ移動しました。
 しかしながら、俳句朗読会に気乗り薄だった私たちの気持ちは、聴衆の熱狂と喜びの渦に巻き込まれ、一気に感謝の気持ちと変わりました。朗読は夏石番矢から始まりました。夏石が日本語で朗読し、セルビア語とスロヴェニア語はディミタール・アナキエフが、フランス語はアラン・ケルヴェルヌが、ジム・ケイシャンが英語でというように五つの言語で夏石の『未来の滝』(英語版、1999年、レッドムーンプレス社、アメリカ。『吟遊』第15号を参照されたい)から選ばれた句が朗読されました。つづいて本大会直前に夏石によって編集された俳句アンソロジー『他言語版 吟遊俳句2000』(『吟遊』第9号を参照されたい)の作品が日本語と英語で朗読され、私、ジムが再度、英語朗読の光栄に浴しました。つぎに「夢」というキーワードをテーマとし、最近出版された俳句アンソロジー『わたしたちの夢』の作品が朗読されました。それから各参加者が一句か二句の朗読をしました。
 継ぎ目なき移動(トルミン劇場―市立博物館―トルミン劇場):私たちは大会ディレクターのイゴール・ドゥルノフセックが準備した「俳句音楽」を聞くためにトルミン劇場に戻りました。これらの移動について一言ことわっておかなければならないことは、トルミン劇場と市立博物館とホテルは隣接しており、移動には一分もかからない距離だったということです。演奏された音楽はすべて俳句に触発されて作曲された音楽でした。ジョン・ケージの「ピアノのための七つの俳句」、スロヴェニア現代音楽家ネヴェト・ヴァラント作曲のピアノソロ曲「鳥」(バルカン俳句を基に)、同ピアノソロ曲「ピアノのための絵画」(ゴルダナ・ヴァタントの俳句を基に)、同ソプラノ、ピアノ、ヴァイオリン、パーカッション曲「凍酒に震える」(ゴルダナ・ヴァタントの俳句を基に)、グレース・アスキス作曲の混声合唱曲「ジャスミンティー」(エバ・ストーリーの俳句を基に)、ラッセル・J・コーター作曲の「季節」(ソプラノとハープによる古典日本俳句を表現)が演奏されました。
 演奏の後、私たちは歩いてホテルに戻り、ディナーを楽しみ、会話を楽しみ、ホテルのポーチでのナイトキャップを楽しみました、さわやかな夜を満喫しつつ、その夜は暮れました。
 
 9月3日(日曜日)
 朝食後、いつものようにトルミン劇場ではなく、トルミン市の市長会議室に向かいました。当日は円卓会議が予定されていたので場所を変更したのです。まず、アラン・ケルヴェルヌのレポート「俳句と歳時記――この定式はどの地域でも置き換えが可能か」が取り上げられました。歳時記とは素晴らしい要約であり、また、そのように意図されたものです。アランは日本の歴史的な文脈のなかでの歳時記の起源と効用を整理したのみならず、世界において歳時記と同様の機能を持つもの、とくに西洋詩にもたびたび登場する、英国の伝統的な田園カレンダーについて、その起源と効用を整理しました。つぎに彼は現代世界における季語について、その役割の減少と、俳句の発展進歩にとって重要な要素であるキーワードの誕生について考察しています。最後に、俳句におけるキーワードの効用を認め、俳句の将来への橋渡しをした1999年の東京会議(7月11日、東京で開催された第一回国際現代俳句シンポジウムにおいて、国際俳句の基本的な原則が検討された)の重要性を述べています。
 つぎにウラジミール・デヴィデがクロアチアの俳句について発言しました。俳句が同質化し、特長のないものとなるのではなく、国や地域ごとのローカル性や独自性を保つ必要性を強調することが彼の問題提起のポイントでした。また彼はいくつかの小話によって俳句を定義しました。その小話は重たくなく、私たちの気持ちをリフレッシュさせ、しばしば楽しませてくれるものでした。それはまさに私たちがなしてきた多くの議論の最後を飾るにふさわしい最高の結論でした。
 日曜日の会議のbPに位置するのは何かと聞かれれば、まさにこの円卓会議でした。私の個人的な見解ですが、この円卓会議は本年の「世界俳句協会」カレンダーに記されるべき、もっとも重要な会議であったといえるでしょう。多くの人々が集まり、また彼らは多言語・多文化を代表する人々でもあり、そして現代俳句が直面している広範囲の問題に対して人々が意見を述べ、関心を示した場こそが、この円卓会議であったのです。そしてこの円卓会議は私たちの期待どおりのものでした。多くの問題について議論されている間に、討論は大きく三つの軸に収斂されたとおもいます。第一は歳時記問題です――これは単にローカルな現象なのでしょうか、あるいは、その地の人々のもつ文化的・文学的歴史なのでしょうか、あるいは、歳時記は今以上の強烈なインパクトを今後持つことができるのでしょうか。本当に歳時記は国境を越えることができるのでしょうか。たとえばウィリアム・J・ヒギンソンの俳句の世界で試みられたように、歳時記の成功とは何だったのでしょうか。指摘されたこれらのポイント各々について、期待通り日本のメンバーから、とりわけ多くの情報が提供され、詳細な議論が交わされました。そして歳時記は歴史的現象であり、俳句にとっての影響は非常に大きなものであったが、現代俳句詩人が必要としているものではない、という合意が得られました。また、「世界俳句協会」にとっては、現在、協会が制作中の、キーワード概念をベースにした初めての歳時記の刊行に対する励ましともなりました。この歳時記は季語を伝えるだけの今までの歳時記より幅広い領域をカバーするのは当然のことながら、俳句文化において共有されている伝統や俳句作品を活用しながら、本当にこれまでの歳時記には通常含まれていなかったカテゴリーや流行をもっと含めるべきです。このような歳時記だけが国境を越え、真の「世界詩」に貢献できるのです。
 俳句教育に関する会話のなかで、多くの驚くべきことがありました。当然のことながら、短詩型詩としての俳句理解をよりいっそう深めるために、日本と同じく西洋においても、多くの草の根運動の試みがなされています。そのなかで、恐らくもっとも興味深いことは、日本人が日本の子供たちに俳句を教えることを難事業だと認識していることです。日本の学校における俳句教育の水準が近年低下しており、わずか数年前までは五十から百以上の俳句を知っていたのに、現在では平均的な生徒でも、小学校四年生で二つか三つの俳句しか知らない、というところまで水準が下がっています。この事実にも増して驚いたのは、吉村侑久代助教授の高等教育を受けている学生を対象とした俳句教育のもっとも成功した方法は、英語俳句を教えることである、という意見でした。英語文化、とくにアメリカ文化は日本人にカッコイイと思われているので、アメリカ製俳句はカッコイイ文化を知りたいと思っている日本の学生にとって十分にカッコイイものとして映っているのです。ある意味では俳句は俳句誕生の地、日本から西洋に向かい、そして今また日本に戻り、円環を閉じました。今、俳句の波は一周遅れで日本と背中合わせとなっています。
 さまざまな会話のなかで、とくに日本からの参加者にとって興味のある、もっとも重要な問題は日本の俳句組織についてでした。というのはこの問題こそ日本における公的な俳句生活に大きく影響を与える問題であるからです。会話のなかから浮かび上がってきたものは、一般に言われているのとは逆に、日本の俳句詩人はその領域を世界に広げている俳句の活動に非常に興味を持っているということです。しかしながら日本の俳句ヒエラルキーはこの活動を受け入れることには消極的である、ということです。そしてそこに居合わせた詩人たちは、この問題についての関心と協力の気持ちを持っていることは明らかでした。これらの会話が終わり、悲しいことに、いよいよ最後の朗読となりました。詩人たちはそれぞれに彼らの過ごした時間とトルミンでのさまざまな経験の瞬間を共有しています。本大会における全俳句作品は二、三ヶ月後に大会記念句集として夏石番矢によって纏め上げられるでしょうが、皆さまに自作の別れの詩をおくりたいと思います。午前中のセッションの時、私は漢字で「佛」とプリントされたTシャツを着ていました。愛媛県現代俳句協会会長の相原左義長は私のTシャツの漢字を読むために、私の方にいらっしゃり、挨拶をされました。ですから以下に詠う詩の誕生に際して主要な役割を果たしていただいた彼に感謝しなければなりません。
   reading butsu on my shirt   シャツの「佛」を読み
   a man lays his hands     男が両手置く
   on my belly        腹の上
 ホテルに戻って昼食をとり、その後日本からの参加者はコバリットへのショート・バスツアーの後、リュブリャーナから帰国の途につきました。他の参加者は出発までの間、会話やラスト・ドリンクを楽しみ、少し長くとどまりました。最後にディミタールと私だけがトルミンに残りましたが、ほとんどすべての参加者から無事に帰国したという連絡が入ったことは非常にうれしいことでした。
 今後の活動課題:「世界俳句協会」のホームページの開設、各国での活動拠点の確保、世界の俳句の将来にとって重要だと思われる出版プロジェクト等です。世界俳句協会創立大会のもっとも重要なメッセージだと思われるものは、俳句詩人間のコミュニケーションを増大させる必要があること、人々は世界各地でどういったことが進行しているのか知りたがっていることです。そして今回開催されたような、詩人たちが直接出会い、詩と食事と会話を共有する集まりは、私たちが自由にそのようなコミュニケーションを図ることができるもっとも重要な手段です。
 私は2003年10月3〜5日に奈良県天理市で開催される第二回世界俳句協会大会において皆さま全員と会えることを楽しみにしています。
 
付記:本大会はNHKにより日本国内放映用とおそらく海外放映用の二種類のプログラムとして撮影されました。二部構成となっており、第一部はバルカン諸国での俳句の状況です。この目的のためにテレビクルーはほぼ毎日ディミタールをフォローし続けました。第二部は「世界俳句協会」の概要と歴史的な本創立大会についてです。日本での放映は2000年12月の予定です。
      
 

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